1981年(昭和56年)4月、トロンボーンを小田桐寛之氏(現・東京都交響楽団首席奏者)に習い始める。
- 近所の音楽教室のトロンボーンコースに通い初めて4年が経ちましたが、レッスンに来る先生はなぜだか
- みんな1年そこそこで辞めてしまって、次から次へと先生が替わります。よほど割に合わない仕事だった
- のでしょうか、それとも生徒の出来があまりに悪くて…?(もともと1年契約だったのかも?)
- 小田桐氏に教わり始めたのも氏がこの音楽教室に「次の先生」として赴任したからなのですが、氏も
- 御多分に漏れずにその音楽教室を間もなく辞めてしまいました。それまで先生が辞める時には「今度の
- 先生はどんな人だろう?」などと思っていましたが、なぜか小田桐氏が辞める時は、それなら自分も
- ここを辞めて個人的にこの先生の所に習いに行こう、と思ったのでした。どうやらこの頃になってやっと
- 自分は音楽大学に行きたいんだと自覚し始めたようです。小田桐氏の母校である東京の洗足学園まで月に
- 数回レッスンに通う事になります。
- そう言えば、「ドラマーまっきぃ」の夢は何処へ?高校入学後間もなく中学の時の友人達とロックバンド
- のようなものを結成して練習はしていました。ドラムセットを持っている訳ではないので家では雑誌を
- 色々な高さに積み上げてスティックでバシバシ叩いて練習、本物を叩けるのはスタジオ練習の時だけです。
- 結局このバンドは本番を一度も経験せず、リハーサルバンドとして終了してしまいました。
- 高校では、友人に勧められて始めたクロスオーバー、いわゆるフュージョンの走りのようなバンドに別に
- 参加していて、そこではホーンセクションとしてトロンボーンを吹いていました。そのバンドでギターを
- 弾いていたT君がフュージョンバンド「カシオペア」のファンで、ああいうスタイルでバンドを組んで
- コンテストに出たいと話を持ちかけて来たので、そこでドラムを叩く事になりました。今では「バンド・
- エクスプロージョン」という名前になっていますが、当時は「East West」と言っていたカシオペアの
- デビューのきっかけになったコンテストでもあります。
- コンテストではそこそこの成績しか収められずデビューとはなりませんでしたが、その後もコンサートや
- イベント、文化祭、今では大規模になった「Hot Wave Festival」の第1回コンテストに参加したりして、
- 精力的に活動していました。このバンドの活動は大学1年の冬、私が東京で一人暮らしをしていた為に
- 続行が困難になって断念するまで続きました。
1981年(昭和56年)9月、トロンボーンを前田保氏に習い始める。
- 小田桐氏の母校ではなく、なぜか志望校を武蔵野音大にしぼり、8月第一週目の武蔵野音大受験者のため
- の講習会に参加します。そこでお世話になった前田先生にそのまま入試まで面倒を見ていただく事になり
- ました。洗足学園での小田桐氏のレッスンを続けつつ、9月から月に数回前田先生のレッスンを受けに
- 東京・江古田の武蔵野音大に通う日々が始まりました。先生にはその後大学4年間お世話になり続ける事
- になります。
1982年(昭和57年)4月、武蔵野音楽大学に入学。
- 音大進学を決意してから1年、ピアノこそ続けていましたがソルフェージュ、楽典、新曲視唱などの準備
- 期間は数ヶ月、よく入れたものです。入試の時に知り合ったトロンボーンのT君と「二人とも受かったら
- 一緒に住もうか」と冗談のように言っていたのが本当になり、前半2年間の校舎となる埼玉・入間郡から
- 電車で小一時間の練馬駅から徒歩10分という所で一緒に住む事になりました。彼とはこの後3年になって
- 校舎が江古田に移り、彼が実家の千葉県から通う事になるまで2年間の共同生活を送ります。
- 実は私はテニス少年でもありました。入学願書の趣味の欄にも「テニス」と書いた記憶があります。
- シドニーに移住後、せっかくオーストラリアに来たんだからテニスをやらなきゃ損!(当時ビヨン・
- ボルグという豪州出身のテニスプレーヤーの全盛期だった)と言う訳で、小学校4年生から現地のテニス
- スクールに通っていました。帰国後も毎週日曜日にはスクールに通い続けていたので、やはりここは
- テニス部入部でしょう、と早速手続きを済ませました。
- 結局4年間テニス部に在籍し、終いには部長までやってしまう事になるのですが、入間校地には恵まれた
- テニスコートがあり平日は夕方から、日曜は一日中、週7日テニスをしていました。後半2年間の校舎で
- ある江古田校地にはコートがなく、江古田組は毎週土日になると徒党を組んで1時間の往路を入間校地に
- 向かいます。駅の上り階段半ばにして養命酒が欲しくなる今の私からは想像もつかない元気いっぱいの
- 学生時代でした。
1986年(昭和61年)3月、武蔵野音楽大学を卒業。
- テニスに浸りつつもトロンボーンの方も一生懸命練習して、何とか無事に大学を卒業出来ました。しかし
- 仕事がありません。両親の心配をよそに就職せずにそのままフリーとしてトロンボーンを吹き続ける事に
- したのはいいものの、当然仕送りも止められてしまったので何とか自分で稼がなくてはなりません。同期
- の中には学生のうちからプロオケの先輩から仕事を貰って活躍していた人も若干いましたが、私は学生
- 時代に「ギャラ」の発生する仕事を殆どした事がありませんでした。
- 喰えなくては仕方がありません。ボーヤのバイトを紹介してくれる先輩に頼み込んで仕事をまわして貰う
- 事にしました。主に海外から来るオケ・バレエ・オペラの大道具さんの仕事なのですが、バイエルン
- 放送響、モスクワ放送響、ミュンヘンフィル、コンセルトヘボウ、英国ロイヤルバレエ、パリオペラ座、
- ベルリン国立歌劇場などなど、超メジャーなオケやバレエの本番が舞台袖から見られたりするような結構
- 美味しいバイトで、11トントラック20台分もの舞台セットを運ぶキツい仕事が多かったにもかかわらず
- 一日2つ3つと掛け持ちでやらせて貰ったりしていました。
- 大学卒業後1、2年はバイトをしながらほんの少しのオケやアンサンブル、小中高のバンド指導などの
- 仕事をしながらしのいで来ましたが、その後少しずつ頂ける仕事が増えて来てバイトをしなくても何とか
- 生活出来るようになって来ます。しかし、プロオケに吹きに行ってもまだまだ駆け出しの身、出来ない事
- 戸惑う事が多すぎて気は滅入り、何が何でもこの仕事で、という思いとホントにこれで喰っていける?と
- いう思いが常に行き来します。